
医師の転職というと、常勤での転職が圧倒的に多いのが実情です。今回は、シリーズとして取り上げてきた非常勤のテーマと対をなす形で、「雇う側の立場」から常勤勤務を考えてみたいと思います。
医療機関側、つまり採用する側の視点に立ってみると、常勤で医師を採用することには想像以上にデメリットも多く、実際には不利な側面が少なくありません。もちろん常勤医師を確保できれば、一定の労働力を安定的に確保できるという大きな利点がありますが、その一方で、採用そのものが「賭け」や「ギャンブル」に近い性質を持つことも否めません。採用後のミスマッチや金銭的な負担を含めると、医療機関にとっては相応のリスクを伴う決断になります。
今回は、そうした現実をあえて「雇う側」の立場から整理し、採用構造を冷静に見つめ直してみたいと思います。こうした構造的背景を理解しておくことは、転職活動を進めるうえで先生方ご自身にとっても有利に働くはずです。雇われる側としてだけでなく、採用する側の事情を理解することが、より良い職場選択にもつながっていくと思いますので、参考にしていただければと思います。
実は労働者の権利がものすごく強い
これまでも何度か触れてきましたが、雇う側と雇われる側を比較すると、現在の日本においては明らかに雇われる側、つまり労働者の立場の方が圧倒的に強いといえます。法制度の上でも労働者は手厚く保護されており、社会的なセーフティーネットも整備されています。したがって、転職という場面においても、働く側――つまり医師の側が、構造的に有利な立場に立つことができるのです。
一方で、医療機関側、すなわち雇う側の立場に立ってみると、その構造がむしろ逆に働きます。採用する側は、法的にも社会的にも数多くの制約を受けることになり、不利な立場に置かれるケースが少なくありません。今回はその「雇う側の不利な側面」に焦点を当て、医療機関がどのような制約の中で採用を行っているのか――その現実を少し掘り下げて考えてみたいと思います。
解雇できないプレッシャー
常勤勤務の場合、基本的には雇用期間を設けず、定年までを前提とした採用になります。いわゆる「無期契約」、すなわち期間の定めがない契約です。医療機関の立場から見ると、この仕組みが非常に厄介で、原則として定年までの間、よほどの理由がない限り職員を解雇することができません。常勤医師として採用された場合、その労働者としての権利は非常に強く保護されており、たとえ病院での活躍が十分でなかったり、求められている水準の仕事ができなかったり、単純にミスマッチであったとしても、医療機関側から一方的に「辞めてほしい」と言うことは極めて難しいのが現実です。
もちろん、法律上はいくつかの条件や手続きがありますが、現行の法制度のもとでは、本人が自ら「辞めます」と言わない限り、事実上、辞めさせることはほとんど不可能に近いといえます。中には、配置転換や業務変更、給与調整などによって退職を促すケースもありますが、明らかに退職を強要するような対応を取ると、労働基準監督署への通報などを通じて、今度は医療機関側が法的に追及されるリスクを負うことになります。
採用した医師が実際に期待通りであれば問題はありませんが、意図しない人材を雇ってしまった場合には、その後の経営に大きな負担がのしかかります。契約に期限がない以上、事実上は半永久的に在籍し続けることも可能であり、医療機関としては「雇ったが最後」という状況にもなりかねません。したがって、常勤医師を雇用するという行為は、実は非常にリスクの高い判断です。特に中小規模のクリニックにとっては、一度の採用ミスが経営全体に影響を及ぼす可能性もあり、場合によっては致命的なダメージにつながることもあります。
良い人が入っても、拘束できるわけではない
たとえ非常に優秀で信頼できる先生が採用できたとしても、その先生を「辞めさせたくないから」といって、雇う側が強制的に引き止めることはできません。労働者という立場は、法律上いつでも退職の自由が認められており、基本的には自分の意思で職場を離れることができます。就業規則上は「退職の3か月前までに申し出ること」といった規定があったとしても、労働基準法では2週間前の予告で退職が認められるケースが多く、現実的には本人が辞意を示せば、止める手段はほとんどないのです。
そのため、医療機関としても「ようやく良い先生が入ってくれた」と安心し、責任のある仕事を任せたり、将来的に管理職として活躍してもらおうと考えていた矢先に、突然退職を申し出られる――という事態は決して珍しくありません。現場では、こうしたケースに頭を抱える経営者も少なくないと思います。
つまり、医療機関側からすれば「辞めてほしい人ほど辞めさせられず、辞めてほしくない人ほど辞めてしまう」という、非常に難しい立場に置かれているわけです。これは単に人事上の問題というより、構造的に労働者の権利が強く保護されている日本の制度の帰結でもあります。雇う側から見れば、こうした構造は実際の運営上かなり厳しいものであり、「たまったものではない」と感じる経営者が多いのも無理はないでしょう。
総額の費用負担が大きい
医師という職種は、当然ながら年収水準が他の職種に比べて高く、常勤として雇用する場合、その給与負担は医療機関にとって非常に大きなものになります。さらに、給与に加えて社会保険料の事業主負担が発生し、これも半額とはいえ相当な額に上ります。加えて、多くの医療機関では退職金制度を設けており、在職中からその原資を積み立てておく必要があります。10年、20年と勤続すれば、退職時に数千万円単位の支払いが発生することも珍しくありません。つまり、常勤医師を1人雇うだけでも、総額としては非常に大きなコストを背負うことになるのです。
大規模な病院であれば、組織全体の財源規模が大きいため、こうした負担もある程度吸収できます。しかし、在宅診療クリニックや中小規模の医療機関ではそうはいきません。特に、事業拡大のタイミングで常勤医を雇わなければ運営が回らなくなったようなケースでは、採用一つの判断が経営に直結します。もし立て続けに、医療機関として望ましくない人材を採用してしまえば、辞めさせることも難しいまま給与や保険料を払い続けなければならず、想定外の固定費増加によって経営が一気に圧迫されます。
その結果、経営が傾き、最悪の場合は破綻に至ることも現実的に起こり得ます。特に財務基盤がまだ十分に安定していないクリニックにとって、常勤医師の採用はまさに経営上の「大きな賭け」となり得る判断です。採用が成功すれば医療機関の発展につながりますが、もし失敗すれば、経営に致命的なダメージを与える可能性すらある――それほど常勤採用というのは、重く慎重な判断を要する行為なのです。
常勤採用は医療機関側にとってもある意味「賭け」
転職という行為は、医師の立場から見てもある程度「賭け」の要素を含むものですが、実は採用する医療機関側にとっても同様、いやそれ以上に大きな「賭け」であるといえます。むしろ、採用がうまくいかなかった場合のリスクは、医師本人よりも医療機関側のほうがはるかに大きく、ダメージの深刻さという点では比較にならないほどです。(参考記事→転職最大の賭け ― 人間関係)
つまり、転職というのは表面的には対等な関係に見えても、実際には「雇う側の方が圧倒的に不利な立場」にあります。採用ミスがあった場合、その影響は長期的かつ経済的に重くのしかかりますし、解雇が難しいという制度上の制約も相まって、経営的リスクは極めて高くなります。
言い換えれば、転職とは医師と医療機関の双方にとってのギャンブルであり、確率的に見ても医師の側――つまり雇われる側――の方が有利です。ギャンブルにたとえるなら、医師の方が「胴元」に近い立場にあり、医療機関側は常にリスクを背負って勝負に臨んでいるような構図だといえるでしょう。
実は雇う側の方が、はるかにリスクは高い
上述のように、雇う側――つまり医療機関のほうが、はるかに大きなリスクを抱えています。医師の側には、「もし入職してみて合わなければ辞める」という選択肢があります。もちろん、短期間で転職を繰り返すことは履歴書の印象を悪くするため避けたいところではありますが、それでも本人が「続けるのは難しい」と判断すれば、法的・金銭的な制約を受けることなく退職できるのが現実です。辞めたからといって罰金を支払う必要もなく、責任が長期的に残るわけでもありません。
一方で、医療機関の立場から見ると、状況はまったく異なります。どれほど「もう辞めてもらいたい」と思っても、常勤医師を簡単に解雇することは法律上ほとんど不可能に近いのです。確かに試用期間中であれば、明らかにミスマッチと判断した場合に契約を終了することは現実的に可能ですが、その期間を過ぎてしまうと、退職してもらうための法的ハードルは一気に高くなります。
つまり、医療機関側は採用時点で「入職後にどうなるかわからない」という不確実性を抱えながらも、解雇が難しい制度のもとで人材を抱え続けるリスクを負っているのです。雇われる側が比較的自由に辞められるのに対し、雇う側は簡単に手放せない――この非対称な構造こそ、採用リスクの本質だといえるでしょう。
例外は、管理医師案件――いわゆる雇われ院長
ただし、ここまで述べてきたような「雇う側と雇われる側」の構図がそのまま当てはまらない、少し特殊なケースも存在します。代表的なのが、いわゆる**管理医師案件(雇われ院長)**です。これは、同じ常勤勤務であっても、立場上は「労働者」ではなく「経営側(管理者)」として扱われるため、一般の勤務医とは法的な位置づけが大きく異なります。つまり、形式的には雇われているように見えても、実際には経営者側の立場に立っていることになるのです。
この場合、労働者としての権利――たとえば労災保険、傷病手当、有給休暇といった基本的な保障――が一切発生しません。日々の業務内容は勤務医と変わらなくても、社会的にはまったく別の扱いになる。この違いは想像以上に大きく、急激に保障が消える構造になっているといっても過言ではありません。
さらに厄介なのは、今度は先生の方が、「辞めたくても辞められない」という状況が現実に起こり得るという点です。これには主に二つの論点があります。ひとつは管理医師としての責任、もうひとつは金銭的な契約の拘束です。
まず前者についてですが、自由診療でも保険診療でも、いわゆる「雇われ院長案件」の多くはそのクリニックに常勤医が一人しかいないケースが多い。つまり、その医師が抜けるとクリニック自体が存続できなくなってしまうのです。保健所への届け出上も、常勤管理医が不在では継続ができません。したがって、「次の医師が見つかるまで辞められない」というケースが非常に多いのです。中には違約金といった条項が契約書に明記されていることすらあります。こうなると、家庭の事情や健康上の理由があっても、実質的に退職が難しくなってしまいます。これはもはや“契約上の拘束”であり、極端な場合、「奴隷契約」と言っても差し支えないほど厳しい内容になっていることもあります。
次に後者の金銭的リスクについて。特に新規開業時の立ち上げに関わるケースでは、リース契約や設備投資に関する借入金を管理医師個人の名義で行っていることがあります。つまり、名目上は“雇われ”であっても、実質的には借金の責任を医師個人が負っているということです。実印や銀行印、通帳などを法人側に預けているケースもあり、その場合、本人の知らないところで多額の債務を抱えているリスクも考えられます。こうなると、金銭的な理由からも簡単には辞められないという事態になりかねません。
このように、管理医師案件は「お金」と「契約」の両面で落とし穴が多いのが実情です。もちろん、法人がしっかりしていて、誠実な経営を行っているケースもありますが、実際には玉石混交です。特に医師以外の人物が医療法人の代表となり、他業種での成功を背景に医療ビジネスに参入しているような場合は要注意です。彼らは経営のプロであり、契約においても抜け目がない。一方で、医師の側は法律や経営の知識に疎いケースが多いため、リスクを見抜けず不利な条件で契約してしまうこともあります。
したがって、リスクをできるだけ避けたい先生は、こうした管理医師案件そのものを避けるという判断が最も安全だと思います。優良案件と危険案件を見分けるのは、正直なところ医師個人のレベルでは不可能です。契約の内容が一見まともに見えても、実際には極めて不利な条件が潜んでいることがある――それを理解したうえで、慎重に関わることが必要です。
管理医師を経営者の立場で考える
今回のテーマは「経営側の立場で常勤採用を考える」というものでしたから、少し話がそれた部分を戻すと、逆に言えば管理医師として勤めてもらうことは、経営者側にとって非常に有利な仕組みでもあると言えます。というのも、管理医師という立場は労働者ではなく「経営者側の人間」として扱われるため、労働者としての権利――労災、有給、傷病手当など――が発生しないにもかかわらず、実態としては勤務医と同様に日々現場で働いてもらうことができるからです。
少し意地悪な言い方をすれば、医師というのは専門分野には非常に長けている一方で、経営や契約の世界に疎い方が多い職種でもあります。したがって、経営側がそこに巧妙につけ込もうと思えば、契約上は整っているように見せかけながら、実質的には医師にリスクを押しつける構造をつくることも理論上は可能です。たとえば、先ほど触れたように、リース契約や借入契約を医師本人の名義で結ばせてしまえば、もし経営がうまくいかなかったとしても、その債務はすべて医師個人に帰属する。経営者側はほとんどリスクを負わずに、複数店舗の展開まで見込めるわけです。
しかも、この構造は法律的に必ずしも違法ではないという点が厄介です。明らかに虚偽の説明や詐欺的な誘導があれば問題ですが、「契約書に明記し、本人が同意して署名している」という形式が整っていれば、法的には成立してしまいます。うまくいけば、経営側は実質的にお金をもらいながら店舗を運営でき、フランチャイズ料のような形で利益を吸い上げることも可能です。逆にうまくいかなかった場合も、その責任は医師個人に集中するため、経営側は「無傷で撤退」できてしまう。これほど一方的にリスクを回避できる仕組みは、実際のところそう多くはありません。
もちろん、すべてのクリニック経営者がこうした不誠実な発想で動いているわけではありません。大半の経営者は誠実に医療を継続しようと努力しているでしょう。しかし、構造的にこうした“抜け道”が存在してしまう以上、実際に悪用する人が出てきても不思議ではない。現に、医師が知らぬ間に多額の借金を背負わされたり、経営破綻後にすべての責任を個人に押しつけられたりするようなケースも報告されています。
つまり、思考実験として考えただけでも、管理医師案件には非常に強い非対称性と潜在的リスクがあることが分かります。だからこそ、医師側は「そんなに悪い話ではなさそう」と思っても、慎重に契約内容を精査し、場合によっては専門家の助言を受けるべきです。残念ながら、こうした構造は現実に存在しており、十分注意すべき領域であるといえるでしょう。